■ブッダの生涯
仏陀(ブッダ、buddha)は、仏ともいい、インド のサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言います。
1、生誕
釈迦は、シャカ族の王スッドーダナを父とし、マーヤ夫人を母としてこの世に生をうけました。出産のため実家に向かう途中、マーヤは、現在のネパール南部にあるルンビニー園で休息をとりました。起源前563年4月8日、かたわらの木の花を折りとろうとして右手を伸ばした瞬間、右脇から男の子がするりと誕生したといいます。太子は、シッダールタと名づけられ、誕生して7日目に母を失ったシッダールタは、叔母のもとで育てられました。
2、出家
7歳ころから、太子は学問や武芸に励む毎日を送りました。しかし、シッダールタは、決して 心が満たされることはなかった といいます。繊細で強い感受性を備えたこの少年は、しだいに物思いにふけることが多くなり、ややもすればふさぎがちとなっていきました。 後に彼は、次のように回想しています。「わたしは、衣食住については極めて快適であった。しかし、一般の無知な人々はみずからも老い、病み、死ぬさだめにあるのに、他の人が老い、病み、死ぬのを見て、悩み、恥じ、嫌悪すらしている。このように考えたとき、わたしは自分が若くて健康に生きていることもすっかりむなしくなってしまった」。 そんな太子を心配した父王スッドーダナは、太子に、ヤショーダラという妃を迎えました。ふたりのあいだには、男の子が産まれましたが、シッダールタは、少しも喜ぶ気配を見せなかったといいます。すでに出家の決意を固めていたシッダールタにとって、子はそれを妨げる束縛にしか過ぎなかったのです。このように、少年期から青年期にかけてのシッダールタは、一般の人々から見ると病的なほど、 老・病・死 について恐れを抱いていました。そして、いつしか出家して修行者となり、人生の苦悩を解決する道を見つけたいと考えるようになっていきました。息子ラーフラの誕生は、太子 29歳、出家の直前のことでした。
3、大悟
ある明け方、シッダールタは、ついにカピラヴァストゥ城を去ります。 自らの髪を剃り落とし、一介の修行者となったシッダールタは、当時修行者が多く集まっていたガヤに向かいました。シッダールタは、ウッダカの苦行林に入って、 6年間の苦行 に明け暮れる毎日を送ったといいます。 彼は、心をもって心をコントロールする苦行、吸う息・吐く息の呼吸をとめる苦行、そして、1日だけ、次に2日、3日、1週間、6ヶ月と絶食(断食)する苦行を実践しました。 さらにシッダールタは、次のような、異常とも思える苦行をあえて行なったといいます。
・牛や羊のように草だけを食べる ・牛糞を食べる ・自分の小便を飲む ・イバラに身を横たえる ・朝から晩まで立ちっぱなしで過す ・しゃがんだままで過す ・片手あるいは両手を上に挙げたまま ・灼熱の太陽を凝視する ・四つんばいで歩く ・墓地で死体とともに暮らす ・乱暴者や子供から石を投げつけられ、棒で打たれてもじっと耐えて座禅している
このような激しい苦行をくりかえしたために、周囲の苦行者から「シッダールタはすでに死んだ」と思われたこともあったといいます。 しかし、6年間のこうした苦行は、彼に何の答も見つけてはくれなかったのです。かえって、断食などの苦行は、身体を苦しめるだけで 解脱(心の安らぎ) には役立たず、無意味であると考えるようになっていきました。 そしてついにシッダールタは苦行に終止符を打ちました。シッダールタは、周囲から「シッダールタは、修行者たる資格を失った」とみなされました。しかし彼はそんなことはまったく気にしませんでした。6年間ずっと行動をともにしてきた5人の修行者たちは、そんなシッダールタに失望し、彼のもとを去っていきました。 シッダールタは、近くの川で苦行に汚れた身体をすっかり洗い清めました。骨と皮だけになったシッダールタをあわれんで、村娘スジャータは乳粥を彼に与えました。 そして彼は、とあるアシュヴァッタ(あるいはピッパラ)の樹の下で心静かに瞑想にふけったのです。外からのさまざまな妨害や内なる心の葛藤と戦いながら。
そしてある夜明けに明星を見て彼は忽然として大悟しました。悟れるもの、 ブッダ となったのです。これにちなんで、このガヤの地は、「ブッダガヤ」と呼ばれ、またこのアシュヴァッタの樹は、「菩提樹」と称されました。
4、伝道
ブッダとなった彼は、今度は自らが体得した真理を、多くの人々に説き示すために伝道の旅に出ました。最初の説法は、サルナート(鹿野苑)において、かつて彼のもとを去っていった5人の修行者に対して行なわれたといいます。ここに、ブッダを含めて6人による最初の仏教教団(サンガ)が成立したのです。 その後、マガタ国・コーサラ国内各地における伝道が行なわれ、ウルヴェーラのカッサパ3兄弟率いるバラモン教団1000人、懐疑論を唱えるサンジャヤの弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラナ(目連)および彼らの弟子250人などを次々と改宗させ、教団はふくれあがっていきました。 マガダ国王ビンビサーラも、霊鷲山に拠っていたブッダらをしばしば訪れ、竹林精舎を建立してこれをブッダに寄進したといいます。竹林精舎は、仏教における 最初の僧院 となりました。 さらに、コーサラ国王のパセーナディも、深くブッダの教えに心酔しました。祇園精舎を寄進したスダッタ長者は、コーサラ国の商人でした。 こうして、ブッダの教えは広く人々を感化し、支持者からの多大な布施によって、教団の生活は安定するようになっていきました。 しかし、かつての苦行者の常識からは程遠い教団の実態を嫌悪し、師ブッダへの反感を抱く一人の弟子がいました。その名を、デーヴァダッタ(提婆達多)といいます。弓や象を使ってブッダを殺させようとしたとか、マガダ国のアジャータ王子に取り入り、父王ビンビサーラの殺害を仕向けた、とか、その数々の悪行によってついに地面が避け、地獄に堕ちた、とされています。 彼にまつわる伝承の多くは、あまりにも極端であり、そのほとんどは後世に作られたものであると考えられています。彼が、年老いたブッダに代わって教団の指導者になろうとしたことはまぎれもない事実でしたが、教団を維持するものたちは、教団の分裂を恐れるあまり、デーヴァダッタをかっこうの 「スケープゴート」に仕立てたのです。彼を、常に極悪非道の人物として登場させる仏典の意図は、そんなところにあるのかもしれません。
5、入滅
40数年間を伝道につとめたブッダも、いよいよ死期を悟ります。入滅の日取りをお決めになり、彼はアナンダを連れて最後の旅に出ました。すでに80歳を越えたブッダは、衰弱した身体に鞭打つように、生まれ故郷のルンビニーに向かいました。 そして、その途中、クシナガラというところで、ついに息を引き取りました。沙羅双樹の下に横たわったブッダは、アナンダに静かに語りかけました。 「あらゆるものは滅びゆく。怠ることなく精進努力して、修行を完成せよ」。これがブッダの最後の言葉となったのです。 タイには次のような言い伝えが残っています。サンガのメンバーであったシバカゴマラバット師は、たった一錠でブッダの病を何でも治すことのできる薬を調合して捧げましたが、ブッダはそれを受け取らず、予定通り入滅されたといいます。シバカゴマラバット師は深い悲しみと共に洞窟で瞑想をし、多くの医学書を書き上げたといいます。その医学書は後世の人々に多大な貢献を果たし、現在でもタイではシバカゴマラバット師を「医学の祖」として尊敬しています。 |